桶狭間の後

藤吉朗の最初の織田家足軽としての大仕事は桶狭間であるが、桶狭間では藤吉朗は何の働きも出来ず単に従軍しただけであっただろう。
この戦後の論理行賞で、功名第一は今川義元が休息している事を信長に報告し今こそ狙い目と、信長にアドバイスした梁田政綱であったのです。

一番槍の服部小平太や首を取った毛利新助ではなかったのです。 小兵である藤吉朗は、この梁田政綱を功名第一にする織田家の足軽である事に、身も震えるほどの喜びを感じただろう。
桶狭間の後藤吉朗は結婚し、その後彼は騎乗の士に取り立てられたのです。
彼は戦場で馬に乗り、兜をかぶり家来を従え末席ではあるが、評定に出席する事も出来ることになったのです。
織田家の他の家臣達の顔をしかめる様子が見えるようです。
桶狭間に勝った信長はその余勢をかって美濃稲葉山城の攻略に出たのです。
斉藤道三の時は蜜月関係にあった織田家と斉藤家だが、道三の死後は一転して敵対関係になっていたのです。
子の斉藤義龍が持病で死に今は達興が継いでいるが幼いため信長はチャンスと見たのであろう。
しかし相手方に竹中半兵衛重治がいたのです。
藤吉朗は戦略というものの重要性を痛めつけられる事で学んだのです。
また信長も自分をここまで完全敗退させた竹中半兵衛に逆に興味を持ったのです。
信長は今度の敗退で、一気に稲葉山城を落とすのは無理だとの感覚を持ったのです。
posted by 織田信長ファン at 19:45 | 桶狭間

思考ロジック

桶狭間では梁田政綱の今川義元昼食中という情報をえています。
大事な事は情報は多分それだけではなかったであろうという事です。
彼は他の莫大な情報を元に色々頭の中で考え戦略を講じて義元を討ったのであり、今川義元昼食の情報は単なる契機にすぎずその情報すべてで、信長は桶狭間に撃って出たわけではないのです。
これは梁田からの情報入手の時間と信長の出陣の時間はどっちが先だったかを考えただけでも分かるのです。
信長が頭の中で莫大な情報を瞬時に検討し、戦略を立案しているその思考ロジックまで学ばなかったし、そういう事が信長の頭の中で行われているなど、考えもしなかったのです。
光秀はこの錯覚により戦いは起こせば安易に勝てるものと思いこんでしまったのです。
信長の頭で計算している情報処理の重要性が把握出来なかったわけです。
彼が後の歴史学者があきれるほど無計画に本能寺の変を起こしてしまうその理由は多分ここにあるのです。
信長が光秀の頭の中に刷り込んだ幻影のなせる技であったわけです。
この事は光秀が実際に本能寺の変で反乱軍のリーダーとなった時に初めて気が付き、痛感したに違いないのです。
でもその時はもう既に遅く変は失敗だったと思ったであろうし同時に自分の敗北を覚悟したのです。
ただ無計画という言葉は似合わなく、光秀にとって信長を殺すことが最終目的だったのです。
posted by 織田信長ファン at 19:30 | 桶狭間

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