信長と猿との出会い

信長と猿との最初の出会いとはどんなものだったのであろうか。
織田家も成長の途中にあり多数の人を必要としていた事、猿も職を必要としていた事、などの幸運があつたのです。
織田家はいろんな人間を多数雇い、役に立たなければどんどん首にしていったのです。
そんな中猿が織田家で勤めを続けることが出来たのは、やはり才能が豊かであったと思わざるを得ないのです。
猿が草履取りをしている最中に幸運があったのですが、それは足軽の浅野又右衛門の組で欠員が出たのです。
猿は欠員補充で足軽になることになったが、その欠けた足軽の名が藤吉朗であった為、織田家の風習で猿も藤吉朗と呼ばれることになったのです。
この頭の浅野又右衛門の次女ねねが後に藤吉朗の妻となるのです。
藤吉朗は織田家の足軽として勤務しながら、非番の日には蜂須加小六の所へ行き遊んでいたのです。
遊んでいたというより関係を密にしていったという方が正しいのです。
現代で言えば、会社勤めをしながら休日に別の会社の人間との交流会に参加する様なものです。
藤吉朗が、一癖も二癖も有る人間であったが、この藤吉朗のもくろみは成功し、この時に出来た関係は終生秀吉を助ける事になるのです。
信長も藤吉朗一名雇う事で、蜂須加村の野武士を配下に置くのと同等の効果をもたらす事に気が付き、その事は藤吉朗に目をかける契機となるのです。
しかし織田家の家臣達にとって藤吉朗は雑用係として信長に取り入った程度にしか思われていなかったのです。
タグ:織田信長
posted by 織田信長ファン at 12:02 | 家臣

秀吉の呼び名

秀吉神話だが彼が猿と呼ばれていたというのは判らなく、日吉と呼ばれていたとも言うが、これは日吉神社が猿を奉っているという事から関連づけられているのであろう。
父は弥右衛門、母はその後天皇よりも尊いと言われるようになるなかです。弥右衛門は信長の父・信秀の時代織田家の足軽として仕えたという記録があります。
これは息子の秀吉が造りあげた履歴かもしれないが、当時の可能性を考えると充分あり得ます。
多分弥右衛門は多分長男ではなく、この時代土地などの資産は長男が受け継ぐものとされていたのです。
でなければ土地などが細分化されてしまい、田畑耕作に向かない土地になってしまうからです。
彼はたぶん長男ではなかったので、耕作する土地を自分で手に入れるしかなかったのです。
織田家の足軽として手柄を立て、金銀を手に入れ土地を手に入れようと思ったのも不思議ではないが、一方で、織田家側もそういう人材を求めている時期であったのです。
しかし望みをかけた足軽という仕事で手柄を立てる事は出来ず、逆に刀傷を負うという結果になってしまったのです。
土着し農民となった彼はなかとの間に、猿の様な顔をした一男と一女をもうけるが、戦のキズがもとであろうか彼は死んでしまうのです。
タグ:織田信長
posted by 織田信長ファン at 11:58 | 家臣

猿と信長

藤吉朗の情報も見逃せないが彼は信長に拾われる前、猿と呼ばれていた時期、義元の地元の遠州にいたのです。
義元を見たか、信長は義元の容貌について藤吉朗に質問しているのです。
藤吉朗は仕えていた主人より聞いていた事を信長に話したのです。
移動は籠か輿で行うという、あまりにも胴が長く足が短い為に馬を股間で挟めない為だと言います。
この話で彼の軍の移動の速度はきわめて遅いという重要情報を入手したのです。
また、信長はこの話で奇襲に分ありという認識をより強固なモノにしたのです。
この輿は織田軍にとってどこに義元がいるかという印の役目もはたしているのです。
輿の中にいる人間か輿の回りで一番保護されている人間が義元という事になるのです。
さて、義元の死で今川氏の人質だった松平元康が解放される事になるのです。
彼は義元の人質になる前織田家の人質でもあったが、幼い吉法師と面識があり、当時戦争状態だった織田家と松平家がこの事を契機に連盟関係になり、両者に大変な利益となるのです。
織田家は西に対して勢力を伸ばす、松平家は東に勢力を伸ばすという相互不可侵条約が成立したのです。
結果、信長は東からの驚異を一切気にせず西に対してのみ勢力を集中すれば良い事になったのです。
家康も故郷三河から東にかけて全勢力を注入し、結果岡崎とは遠く離れた江戸に幕府を開くまでになるのです。
posted by 織田信長ファン at 11:54 | 家臣

信長、藤吉朗そしてお市

信長は人間としての藤吉朗は愛していなかったと考えられ、単に道具として愛していたのみと言えるだろう。
その意味で秀吉も光秀と同じように信長の犠牲者だったとも言え、信長の残忍性の一面が出ているのです。
藤吉朗が織田家の中で自分の能力一杯にまで昇進してしまい、同時に能力の限界を感じつつあった藤吉朗の不安と、それをうち消す半兵衛との会話です。
藤吉朗は織田家の中では、仮面をかぶっている半兵衛とだけそのような交流があるとは思えないのです。
しかし廻りからみるとこのあたりから藤吉朗が、自分の動きを縛っている様な動きに生彩が無くなっているように見えたのです。
お市の方が藤吉朗を嫌っていたという説もあるが、この時期の藤吉朗なら、お市の方ぐらいその気になれば、何とでもできると思っていただろう。
しかしそれをしなかったのは、自分の将来を見据えだしたからに他ならないのです。
お市は浅井長政との別離の後、柴田勝家に嫁ぎ皮肉にも、藤吉朗によって主人が滅せられるという不幸を再度味わう事になるのです。
勝家の時も前回の長政の時と同じように藤吉朗はお市を助けようとするのだが、今度は勝家と一緒に自害するのです。
彼女にとってもう一度同じ舞台を演じるのは耐えられなかったのだろう。
posted by 織田信長ファン at 19:42 | 家臣

藤吉朗の神

藤吉朗にとって信長こそが唯一の神であり信長以外に従うべき教師を持たなかったのです。
信長が死に、半兵衛が死に、最後の官兵衛も後半は遠ざかるあたりから重要なアドバイザーを次々に失い、彼はぼけた街中の一老人と変わらない様な行動をとっているのです。
彼本来の地が出たと言うと残酷だがそのような印象を否定できないのです。
彼は与えられた命令を実行し、成功させるという手順のうまさは天才的だったが、しかし与える命令をどのように考え、誰に指示するかという方法に関しては全く無知だったのです。
山崎の合戦で明智光秀を討ち、天下をつかんだ後、多分彼は天下に対して何をして良いか、どの様な世の中にするかという概念すらもわからなかっただろう。
彼は信長が存命中に言っていた事を一つ一つ思い出しながらとりあえず行っている様な印象が否めないのです。
彼自身のプランは何もなく、全て生前信長がせよと言った事を思い出しながらやっているという感覚が否めないのです。
やり方も信長が生きていた時にやっていた様なキラメキが失われているのです。
そのことから秀吉は単なる信長の忠実な小刀程度の道具であったと思えるのです。
タグ:歴史
posted by 織田信長ファン at 19:39 | 家臣

藤吉朗と秀吉の仮面

豊臣秀吉が謎の人物であったという事に、異議を唱える人も多いと思います。
猿と呼ばれた頃のユーモラスな逸話が残る秀吉と、ぎらぎらした策略を好む秀吉はイメージが対称的です。
しかし信長の死後一気にユーモラスな逸話が無くなり、悲惨な末路に突き進む事を考えると私などはユーモラスなイメージは仮面の姿だったのではと思っています。
皮を剥いだ本当の秀吉とは、もっと違う人間像だったのでは無いかという疑問はあり、ユーモラスという評価も信長に気に入られたい為の、必死の演技だったのではないかとも考えています。
藤吉朗と信長の主従関係はなんと十三年間、一五五八年(永禄一年)に信長に仕え信長の死の年まで、その期間ず自分の本性を見せず信長に仕えていたというのは気味が悪いのです。
しかしいままでの藤吉朗のユーモラスな印象からは程遠い印象だがそれを見破っていた人間が、黒田官兵衛、竹中半兵衛、織田信長などです。
三人とも藤吉朗が必死で演技している姿を見て、いずれも好ましいものとし、気が付かないふりをしていたのです。
posted by 織田信長ファン at 19:34 | 家臣

後継者がもたらしたもの

秀吉には妻がいたが子が出来なかった為、天下を意識したあたりから側室を多数作り嫡子の作成がその主な仕事になったのです。
信長の妹、お市の方には3人の娘がいたが、そのうち茶々は秀吉自身が側室とし、お江は家康の息子の秀忠の嫁になったのです。
両方に各々の子は出来たのでそういう意味で秀吉も家康も信長の正当な後継者として権利は引き継いでいる事になるのです。
大阪冬の陣と夏の陣はその二人いる後継者のどちらが他一方を排除するかという争いであったのです。
秀吉の妻ねねはこのとき自分の夫の側室を味方せず家康側に味方したのです。
積極的な意志を持って豊臣配下の家臣を裏切らせ家康側に味方するように画策したのです。
その為家康は豊臣政権崩落後、彼女に対して多量の化粧料を与えるなどして手厚く処遇しているのです。
秀吉の側室とその子に対しては相当な怒りを感じていた様ですが、秀吉生前はガマンしていたが、死後に側室・淀君に対して対当したのです。
秀吉に対する間接的復讐といってよいのです。
posted by 織田信長ファン at 19:32 | 家臣

織田信長が必要とした才能

信長はいままで戦乱の時代には、柴田勝家や羽柴秀吉の様な才能を必要としていました。
しかしこれから信長が目指す世界では光秀の様な才能こそが一番必要だと思ったに相違ない。
客観的にも藤吉朗が不要になり、光秀が必要になる時期である。
光秀は織田家の中でこの時信長の次に秀才、インテリであった。
まさに彼にとっては信長政権におけるバラ色の時代が目の前に来ているのです。
それは光秀自身も把握していたハズで、そんな光秀が信長を殺す理由など全く無かったはずです。
ただ難点があり光秀が功名心にあふれていたという事、精神的な揺さぶりに弱いという事、信長より年上であった事であります。
光秀は努力の人であり秀才型といえるのです。
彼は信長と足利義昭を結びつけ一時的にせよ信長と足利幕府の蜜月関係を成立させているのです。
将軍の足利義昭から見れば光秀がいる織田家という様に対外的には光秀の方が上であったのです。
しかし将軍義昭と信長の力関係が反転していく中、光秀の位置は下がり、またその時に信長に天才性を発見したに違いないのです。
光秀は織田家側近の中でその天才性を理解していた数少ない一人であったのです。
posted by 織田信長ファン at 19:19 | 家臣

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