稲葉山城への工作

プレハブ工法式の築城方法と鉄砲3連弾戦法は同じ天分を持った人間が考え出した方法であると思うのです。
つまり信長が藤吉朗にこの工法をアドバイスしたのではと思っているのだが、この発想には多分に問題があるのです。
そもそもなぜ信長が藤吉朗に、その様なアドバイスをする必要があるのであろうという疑問です。
たしかに天才の信長と努力的秀才の藤吉朗がペアを組めば非常に効率的な仕事が出来るのは周知の事実であるが、信長が秀吉にそれほどまでに心を引かれた理由が思い浮かばないのです。
かすかな可能性があるとすれば藤吉朗という人間の道具としての魅力に、信長がちょっと助けてやるかと、信長が気まぐれに思ったくらいしか思い浮かばないのです。
信長は藤吉朗であればやり方のヒントを与えれば、必ずその方法を考えるに違いないと思ったのだろう。
これは藤吉朗がいつも愛嬌を振りまいていた信長から藤吉朗へのごほうびなのだろう。
これは信長が獲物を良く捕る鷹狩りのタカを信長が愛したのと同じです。
信長の藤吉朗に対する好意は、鷹狩りの鷹に対する信長の好意と本質的には同じものなのです
墨俣城築城は成功し藤吉朗はその城代となり、蜂須加小六は藤吉朗の与力としてだが、織田家の人間となったのです。
次は稲葉山城への工作である。
信長は当然の事ながら藤吉朗にその任を命じることになったのです。
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posted by 織田信長ファン at 12:12 | 稲葉山城

稲葉山城攻め

藤吉朗は稲葉山城を落とすのに正面から相対することを避けたが、蜂須加小六以下の野武士達を使って情報を集めた所、忠誠心が弱く、利をもって交渉すれば調略できるとの結論を得たからです。
なおかつ精神的な屋台骨も腐りきっているが、正面に外敵が現れると逆に団結し、国の統制が強固になるという要素があったからです。
藤吉朗が一人竹中半兵衛重治を訪ね、彼に織田方に寝返るように説得しに行くことになるのです。
敵方の家臣に自分の味方になれと口説きに行くのであるが、彼は後に何度も同じ様な事をするのだが自分一人で敵方の所に行き、自分の命を相手の懐に入れてしまい、それからつらつらと話をしながら相手を口説き落とす事をしているが、この時もそうしたのです。
むろん相手方が組織に堅牢な人間の場合はそのまま殺されてしまうのだが 、籠の中に入った自分を、半兵衛はそのまま殺してしまう様な事は決してしないいう事を確証を得ていたであろう。
どんな話になったかは知らないが、半兵衛が藤吉朗の持っている何かに惹かれた事は間違いないのです。
こういう場合一端相手の懐に飛び込んで見て相手が危害を加えない場合、交渉の余地は多分に残っているものである。
藤吉朗は何度も半兵衛の元を訪れ、自分の味方になる様に口説き落とそうとしたのす。
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posted by 織田信長ファン at 12:10 | 稲葉山城

半兵衛と藤吉朗

稲葉山城を半兵衛が乗っ取ったという信じられない事が起きたのです。
それもクーデタではなく内輪モメの一つであるとの事です。
信長は藤吉朗を通じて半兵衛にそっくりそのまま、織田方に入らないかと交渉させるのです。
藤吉朗が交渉しているその最中に、半兵衛がその様な行動を起こすというのは藤吉朗と話した何かが影響しているものと思われます。
藤吉朗の話術には何か人を動かす魔術的な魅力が含まれていたに違いないのです。
しかしいとも簡単に半兵衛に拒絶されてしまうからである。
返事はすぐさま信長に伝えられた。
信長は拒絶されたのだが、不思議な爽快感を感じたはずです。
その言葉はウソでなかった、半兵衛は城は元の様に斉藤竜興に返却し、半兵衛は姿をくらまして野に暮らしているという事であった。
しかしお灸を据えられた竜興にとっては、その行為は恨みとしか取っていないだろう。
藤吉朗は半兵衛を手に入れるチャンスだと思ったに違いなく、まさに自分の味方になってもらう千載一遇のチャンスであったのです。
しかし欲の無い人間ほど藤吉朗にとって扱いにくいものはない。
どんな言葉に惹かれたかは判らないが、結局半兵衛は織田家に仕える事になったのです。
敵を滅すより、味方にする方がより効果的であるという常識が織田家で生まれた瞬間です。
ただし半兵衛は信長殿の下ではお仕えしたくない、藤吉朗殿の下でお仕えしたいと言ったのです。
藤吉朗は信長に許しを請いそれは簡単に認められたのです。
信長はこれで美濃は取ったぞ、と思ったに違いないのです。
稲葉山城のすべてを知っている半兵衛が味方になったのである。 藤吉朗にとって山城を奪取するのはもう時間の問題になったのです。
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posted by 織田信長ファン at 12:07 | 稲葉山城

信長と猿との出会い

信長と猿との最初の出会いとはどんなものだったのであろうか。
織田家も成長の途中にあり多数の人を必要としていた事、猿も職を必要としていた事、などの幸運があつたのです。
織田家はいろんな人間を多数雇い、役に立たなければどんどん首にしていったのです。
そんな中猿が織田家で勤めを続けることが出来たのは、やはり才能が豊かであったと思わざるを得ないのです。
猿が草履取りをしている最中に幸運があったのですが、それは足軽の浅野又右衛門の組で欠員が出たのです。
猿は欠員補充で足軽になることになったが、その欠けた足軽の名が藤吉朗であった為、織田家の風習で猿も藤吉朗と呼ばれることになったのです。
この頭の浅野又右衛門の次女ねねが後に藤吉朗の妻となるのです。
藤吉朗は織田家の足軽として勤務しながら、非番の日には蜂須加小六の所へ行き遊んでいたのです。
遊んでいたというより関係を密にしていったという方が正しいのです。
現代で言えば、会社勤めをしながら休日に別の会社の人間との交流会に参加する様なものです。
藤吉朗が、一癖も二癖も有る人間であったが、この藤吉朗のもくろみは成功し、この時に出来た関係は終生秀吉を助ける事になるのです。
信長も藤吉朗一名雇う事で、蜂須加村の野武士を配下に置くのと同等の効果をもたらす事に気が付き、その事は藤吉朗に目をかける契機となるのです。
しかし織田家の家臣達にとって藤吉朗は雑用係として信長に取り入った程度にしか思われていなかったのです。
タグ:織田信長
posted by 織田信長ファン at 12:02 | 家臣

秀吉の呼び名

秀吉神話だが彼が猿と呼ばれていたというのは判らなく、日吉と呼ばれていたとも言うが、これは日吉神社が猿を奉っているという事から関連づけられているのであろう。
父は弥右衛門、母はその後天皇よりも尊いと言われるようになるなかです。弥右衛門は信長の父・信秀の時代織田家の足軽として仕えたという記録があります。
これは息子の秀吉が造りあげた履歴かもしれないが、当時の可能性を考えると充分あり得ます。
多分弥右衛門は多分長男ではなく、この時代土地などの資産は長男が受け継ぐものとされていたのです。
でなければ土地などが細分化されてしまい、田畑耕作に向かない土地になってしまうからです。
彼はたぶん長男ではなかったので、耕作する土地を自分で手に入れるしかなかったのです。
織田家の足軽として手柄を立て、金銀を手に入れ土地を手に入れようと思ったのも不思議ではないが、一方で、織田家側もそういう人材を求めている時期であったのです。
しかし望みをかけた足軽という仕事で手柄を立てる事は出来ず、逆に刀傷を負うという結果になってしまったのです。
土着し農民となった彼はなかとの間に、猿の様な顔をした一男と一女をもうけるが、戦のキズがもとであろうか彼は死んでしまうのです。
タグ:織田信長
posted by 織田信長ファン at 11:58 | 家臣

猿と信長

藤吉朗の情報も見逃せないが彼は信長に拾われる前、猿と呼ばれていた時期、義元の地元の遠州にいたのです。
義元を見たか、信長は義元の容貌について藤吉朗に質問しているのです。
藤吉朗は仕えていた主人より聞いていた事を信長に話したのです。
移動は籠か輿で行うという、あまりにも胴が長く足が短い為に馬を股間で挟めない為だと言います。
この話で彼の軍の移動の速度はきわめて遅いという重要情報を入手したのです。
また、信長はこの話で奇襲に分ありという認識をより強固なモノにしたのです。
この輿は織田軍にとってどこに義元がいるかという印の役目もはたしているのです。
輿の中にいる人間か輿の回りで一番保護されている人間が義元という事になるのです。
さて、義元の死で今川氏の人質だった松平元康が解放される事になるのです。
彼は義元の人質になる前織田家の人質でもあったが、幼い吉法師と面識があり、当時戦争状態だった織田家と松平家がこの事を契機に連盟関係になり、両者に大変な利益となるのです。
織田家は西に対して勢力を伸ばす、松平家は東に勢力を伸ばすという相互不可侵条約が成立したのです。
結果、信長は東からの驚異を一切気にせず西に対してのみ勢力を集中すれば良い事になったのです。
家康も故郷三河から東にかけて全勢力を注入し、結果岡崎とは遠く離れた江戸に幕府を開くまでになるのです。
posted by 織田信長ファン at 11:54 | 家臣

桶狭間の後

藤吉朗の最初の織田家足軽としての大仕事は桶狭間であるが、桶狭間では藤吉朗は何の働きも出来ず単に従軍しただけであっただろう。
この戦後の論理行賞で、功名第一は今川義元が休息している事を信長に報告し今こそ狙い目と、信長にアドバイスした梁田政綱であったのです。

一番槍の服部小平太や首を取った毛利新助ではなかったのです。 小兵である藤吉朗は、この梁田政綱を功名第一にする織田家の足軽である事に、身も震えるほどの喜びを感じただろう。
桶狭間の後藤吉朗は結婚し、その後彼は騎乗の士に取り立てられたのです。
彼は戦場で馬に乗り、兜をかぶり家来を従え末席ではあるが、評定に出席する事も出来ることになったのです。
織田家の他の家臣達の顔をしかめる様子が見えるようです。
桶狭間に勝った信長はその余勢をかって美濃稲葉山城の攻略に出たのです。
斉藤道三の時は蜜月関係にあった織田家と斉藤家だが、道三の死後は一転して敵対関係になっていたのです。
子の斉藤義龍が持病で死に今は達興が継いでいるが幼いため信長はチャンスと見たのであろう。
しかし相手方に竹中半兵衛重治がいたのです。
藤吉朗は戦略というものの重要性を痛めつけられる事で学んだのです。
また信長も自分をここまで完全敗退させた竹中半兵衛に逆に興味を持ったのです。
信長は今度の敗退で、一気に稲葉山城を落とすのは無理だとの感覚を持ったのです。
posted by 織田信長ファン at 19:45 | 桶狭間

信長、藤吉朗そしてお市

信長は人間としての藤吉朗は愛していなかったと考えられ、単に道具として愛していたのみと言えるだろう。
その意味で秀吉も光秀と同じように信長の犠牲者だったとも言え、信長の残忍性の一面が出ているのです。
藤吉朗が織田家の中で自分の能力一杯にまで昇進してしまい、同時に能力の限界を感じつつあった藤吉朗の不安と、それをうち消す半兵衛との会話です。
藤吉朗は織田家の中では、仮面をかぶっている半兵衛とだけそのような交流があるとは思えないのです。
しかし廻りからみるとこのあたりから藤吉朗が、自分の動きを縛っている様な動きに生彩が無くなっているように見えたのです。
お市の方が藤吉朗を嫌っていたという説もあるが、この時期の藤吉朗なら、お市の方ぐらいその気になれば、何とでもできると思っていただろう。
しかしそれをしなかったのは、自分の将来を見据えだしたからに他ならないのです。
お市は浅井長政との別離の後、柴田勝家に嫁ぎ皮肉にも、藤吉朗によって主人が滅せられるという不幸を再度味わう事になるのです。
勝家の時も前回の長政の時と同じように藤吉朗はお市を助けようとするのだが、今度は勝家と一緒に自害するのです。
彼女にとってもう一度同じ舞台を演じるのは耐えられなかったのだろう。
posted by 織田信長ファン at 19:42 | 家臣

藤吉朗の神

藤吉朗にとって信長こそが唯一の神であり信長以外に従うべき教師を持たなかったのです。
信長が死に、半兵衛が死に、最後の官兵衛も後半は遠ざかるあたりから重要なアドバイザーを次々に失い、彼はぼけた街中の一老人と変わらない様な行動をとっているのです。
彼本来の地が出たと言うと残酷だがそのような印象を否定できないのです。
彼は与えられた命令を実行し、成功させるという手順のうまさは天才的だったが、しかし与える命令をどのように考え、誰に指示するかという方法に関しては全く無知だったのです。
山崎の合戦で明智光秀を討ち、天下をつかんだ後、多分彼は天下に対して何をして良いか、どの様な世の中にするかという概念すらもわからなかっただろう。
彼は信長が存命中に言っていた事を一つ一つ思い出しながらとりあえず行っている様な印象が否めないのです。
彼自身のプランは何もなく、全て生前信長がせよと言った事を思い出しながらやっているという感覚が否めないのです。
やり方も信長が生きていた時にやっていた様なキラメキが失われているのです。
そのことから秀吉は単なる信長の忠実な小刀程度の道具であったと思えるのです。
タグ:歴史
posted by 織田信長ファン at 19:39 | 家臣

藤吉朗と秀吉の仮面

豊臣秀吉が謎の人物であったという事に、異議を唱える人も多いと思います。
猿と呼ばれた頃のユーモラスな逸話が残る秀吉と、ぎらぎらした策略を好む秀吉はイメージが対称的です。
しかし信長の死後一気にユーモラスな逸話が無くなり、悲惨な末路に突き進む事を考えると私などはユーモラスなイメージは仮面の姿だったのではと思っています。
皮を剥いだ本当の秀吉とは、もっと違う人間像だったのでは無いかという疑問はあり、ユーモラスという評価も信長に気に入られたい為の、必死の演技だったのではないかとも考えています。
藤吉朗と信長の主従関係はなんと十三年間、一五五八年(永禄一年)に信長に仕え信長の死の年まで、その期間ず自分の本性を見せず信長に仕えていたというのは気味が悪いのです。
しかしいままでの藤吉朗のユーモラスな印象からは程遠い印象だがそれを見破っていた人間が、黒田官兵衛、竹中半兵衛、織田信長などです。
三人とも藤吉朗が必死で演技している姿を見て、いずれも好ましいものとし、気が付かないふりをしていたのです。
posted by 織田信長ファン at 19:34 | 家臣

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